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2015年1月14日 (水)

冬の女王

1998年の1月冬、僕はシクロクロス世界選手権の会場、デンマークのミゼルファートに向かった。今はオーガナイズにお金がかかりすぎてベルギー、ベルギー、ドイツ、ベルギー、オランダ、チェコの順でしかワールドカップ、世界選手権はできなくなったが、この頃はスペイン、イギリス、スイス、デンマーク、スロバキアでも世界選手権があった。ベルギーが弱かった時代があったのだ。

 このときは、フュン島の西の端。ヨーロッパ大陸との境目の町。橋が売り物の町が会場だ。そもそもデンマークは海で分断された島の集まり。どこへ行くにもコペンハーゲンの島から出ないといけない。ミゼールファートはアンデルセンの出身のオーゼンセの島。コペンハーゲンともヨーロッパ大陸ともつながっていない。サーキットは島とヨーロッパ大陸の海峡の島の海辺にある。ガイドブックでは、電車はフェリーで運ぶことになっていた。

 

選手は、どの国も青少年の家のようなコテージが指定の宿舎で(場所はリンク参照)、朝はどの国もみんな一緒に近くの給食センターで食べて、昼夜は自炊だった。川崎にいた妹を飯炊きに連れて行った。

 

成田出発からケチがついた。飛行機の羽が凍結し、青い融雪財を噴霧している。これで出発は1時間遅れた。フランクフルトでの乗り換えは、もちろん遅れた。ルフトハンザは出発したあとだった。団体包括の券なので冷や冷やものであったが、アナウンスの通り、窓口でスカンジナビア航空への振り替え搭乗をしてデンマークへ着いた。

夜遅くにコペンハーゲンに到着。吐く息は白い。もうミゼルファート行きの列車はない。夜は宿舎に入れる予定が崩れたので、空港近くのホテルを手配し、宿舎へは明日行くことを連絡した。ドキドキしながら電話をすると、デンマークの人たちは英語で話してくれた。列車のダイヤを見て夕飯を取ろうとコペンハーゲン駅へ行くと、あらら僕と同じ姿かたちの黄色のモンベルのコートを着た日本人。よかったドッペルゲンガーではない。スポークの土屋 朋子さんだ。まだ生きていられる。駅では明日の朝早くの列車の券を買ったあとなので本来不要なのだが、デンマークの言葉で書いてあるポケット時刻表をもらって帰った。

 

鉄道は地下トンネルがこの年にできていて、列車はフェリーに乗らず、オーデンセの島へはそのまま向かった。座席の上にどこまでの予約とか、空席とかが表示されている。指定席を取らなかったので空席を選んで座った。97-98と書かれた旅行ガイドには次にまたデンマークへ来るとき困らないように、自分でトンネルのことを書き込んでおいた。

ミゼルファート駅には澤田さんが迎えに来てくれた。Japan Sailing teamと書いてあるバン2台をトヨタの現地法人が貸してくれて助かった。僕は迎えに来てもらったけど、土屋さんはどうしているんだろう、と少し思ったりもしたがそのうち忙しくなって忘れた。

試合の前日朝6時。UCIのドーピング検査スタッフが予告なくヘマトクリット採血にやってきた。まだエポ検査が十分でない時代で、ヘマトクリットが50を越えたらペナルティなしで競技を自粛してもらう規定だった。注射は痛くていやなので、なんとか受けずにすむ方法はないものかと当時は考えた。3年後にJADAのDCOになったときにはこのときそう思ったことは忘れることにした。

 

これだけ北なのだから当たり前のように思うが、冷え込みは予想外だったのだろうか、大会委員会が海岸に作った部分のコースは満ち潮が凍ったままのため、前日のデレゲートのインスペクションで内陸にコースを作り直した。直前にコースを変えろと言われた運営も大変だろうが、潮が凍った砂浜に杭が等間隔に刺さっているのを遠目に見て、ここを走るのはいやだなと思った。

 2000年の世界選手権がUCI会議でオランダのセントミシェルヘステルに決まった。日本チームのスタッフのオランダ人は、大変な喜びようであった。何がうれしいのか狐につままれたようで聞いてみると家の近くの町だという。大会にはうちに泊まるといいよと言っていた。実際に2000年はホテルではなく日本チームはお宅にお邪魔して会場へは踏んで行った。すごく安い遠征になった。

 

最終日、エリートの試合が終わると、日本の若い選手もイタリア、スペイン、フランスのコテージのお祭りに出かけた。夜遅くまで騒いでいたものもいたようだ。Y君がスペインチームの帽子をかぶっているので聞いたら日本チームのペナントと交換したという。そういえば、コテージ入り口のペナントの看板がなくなっていた。これは僕がJCFからもらったもので、僕のものだと思っていたのでがっかりした。Y君はイタリアのルカ ブラマティには、日本の挨拶は「マイド」と教えていた。2003年のイタリア・モノポリでは、周回練習中に日本人を見ると 「マイド!と挨拶してくるイタリア人はブラマティだと分かるようになった。僕は終わった機材をパッケージングすることに忙しかったし、ブラマティと仲の悪いポントーニが今は友達だ。

 

帰りは朝4時にバスが迎えに来た。北極星、カシオペアが天上近くにあるのを確認して、僕たちは北にいることを実感。空はきれいに晴れて冷え込んでいた。

 移動は大型バス。箱詰めの自転車を順に積み込み、隙間に座った。島をつなぐ道路の橋はまだなく、バスはフェリーに乗り込んだ。朝は9時少し前にようやく日が昇る。7時半、真っ暗な中、フェリーの喫茶で朝食をとった。支払いはデンマーククローネ。お札には鯛のような魚の絵が描いてある。コペンへ向かうに従い、外は吹雪になった。ああ、ここは冬の女王が住んでいる土地なのだなと思ってコペンハーゲンを発った。

 帰国したらいくつかのカーボンディープリムが割れていた。乗り換え便では荷物は投げられるので嫌いだ。

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